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法政(現代福祉)法/経/商/社会系


偏差値63( 4つ星評価 )
得点率概算75.6%
680.4点/900点満点
偏差値順位全国 325位/2324校( 学部単位 )
関東地方 145位/785校( 学部単位 )
東京都 109位/417校( 学部単位 )
国公立/私立私立
男女共学
※記載の値はサイト独自に算出したデータであり、
ひとつの目安として参考程度にとどめてください。

【法政大学】
概要
年表 ● 明治
・ 1880年 - 4月に東京府神田区駿河台北甲賀町で東京法学社講法局・代言局開設、9月12日に講法局が本格的に開校、12月に神田区神田錦町に移転
・ 1881年 - 講法局が独立し東京法学校と改称(主幹薩埵正邦)
・ 1883年 - 初代教頭にボアソナード(旧民法・旧刑法・治罪法(刑事訴訟法)起草者、日本政府顧問)が就任。修業年限を3年とする
・ 1884年 - 3月に神田区小川町に移転
・ 1885年 - 東京法学校の通信教育機関設立。最初の卒業生8人を出す
・ 1886年 - 4月に辻新次(初代文部次官)、古市公威(帝国大学工科大学初代学長)、長田銈太郎(外交官、明治天皇の通訳)、寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将)ら7名 が、フランス学の普及のために仏学校設立を計画し、5月に仏学会(日仏協会の前身)を組織、11月に同学会が神田区小川町の東京法学校の正面に東京仏学校を設立。初代校長は古市公威。私立法律学校特別監督条規公布により、東京法学校など五大法律学校が帝国大学特別監督下に入る
・ 1887年 - 校友会を設立
・ 1888年 - 東京法学校、普通科と法律科を設置、補習科を廃止。五大法律学校連合大討論会に参加
・ 1889年 - 東京法学校と東京仏学校とが合併、和仏法律学校と改称。初代校長に箕作麟祥(元老院議官、司法次官、貴族院勅選議員、行政裁判所長官、法典調査会主査委員、男爵)就任。校外生制度を新設
・ 1890年 - 九段上校舎に移転。第1回衆議院議員総選挙で旧東京法学校卒業生2名(山田東次・田辺三五郎)当選
・ 1892年 - 第三回帝国議会で民法・商法施行延期法案可決(仏法派に打撃)
・ 1893年 - 和仏法律学校、司法省指定学校となる
・ 1895年 - 帰仏したボアソナードに名誉教頭の称号を授与
・ 1896年 - 和仏法律会を設立
・ 1898年 - 学校組織を財団法人に改める。理事・幹事制新設
・ 1899年 - 高等科を開設。図書閲覧室を開設。『法学志林』創刊
・ 1900年 - 台湾協会学校が九段上校舎を借用(翌年まで)
・ 1903年 - 専門学校令により法政大学と改称、予科・大学部・専門部・高等研究科を設置。校長を総理と改称。初代総理に梅謙次郎(民法・商法起草者、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官)就任
・ 1904年 - 専門部実業科を新設。清国留学生のための法政速成科を設置
・ 1907年 - 実業科を商科と改称。学友会を結成
・ 1908年 - 大学部を法律科と政治科に分離、専門部に政治科を設置
・ 1909年 - 創立30周年記念式典を挙行。来賓に渋沢栄一(当時は男爵)、桂太郎(第11・13・15代内閣総理大臣)、岡部長職(第15代司法大臣)、小松原英太郎(第21代文部大臣)、駐日フランス大使代理参事官等。夜間授業を昼間授業に改める
・ 1910年 - 再び夜間授業に戻す。東京高等予備校を開設。ボアソナード死去(6月)。梅謙次郎死去(7月)
● 大正
・ 1913年 - 総理を学長と改称、松室致(第17・21代司法大臣、検事総長、枢密顧問官、貴族院勅選議員)が学長に就任
・ 1915年 - 野球部が正式に発足。中野(新井薬師)にグラウンドを開設
・ 1917年 - 東京六大学野球連盟の前身である三大学(早慶明)リーグに野球部が加盟、四大学リーグ(早慶明法)結成、神田橋グラウンドを借用
・ 1918年 - 予科の修業年限を3年に延長する。麹町区富士見町4丁目の土地を購入(現在の市ケ谷キャンパス敷地)
・ 1919年 - 大学令による法政大学設立認可申請を行う。中野球場完成
・ 1923年 - 旧九段上校舎を大東文化学院に売却
・ 1924年 - 文学科に国文学主攻、哲学科に社会学主攻を開設。最初の校歌「名大いなれ法政」(為光直経作詞・瀬戸口藤吉作曲)制定。東京高等予備校廃止
・ 1925年 - 専門部に政治経済科と高等師範科(国漢・英語)を開設。東京六大学野球連盟発足
● 昭和(終戦まで)
・ 1927年 - 第一校舎(二代目)竣工
・ 1928年 - 創立50周年記念式典を挙行。来賓に田中義一(第26代内閣総理大臣)、水野錬太郎(第36代文部大臣)、原嘉道(第31代司法大臣)、中橋徳五郎(第5代商工大臣)、後藤新平(当時は第7代東京市長、子爵)、駐日フランス大使等。第四校舎竣工。高等師範科卒業生に中等教員無試験検定認可
・ 1929年 - 専門部に高等商業科を設置。法大航空研究会発足、現在の航空専修の前身となる
・ 1930年 - 新校歌(佐藤春夫作詞・近衛秀麿作曲)が神宮球場で初めて歌われる(翌年1月に正式な校歌となる)。東京六大学野球リーグで初優勝
・ 1931年 - 法文学部政治学科を政経学科と改称。学部主任制度を学部長制度に改める。航空研究会の学生が操縦する「青年日本号」による訪欧飛行を達成(日本の学生初)
・ 1932年 - 専門部の学則を変更し、高等師範部および高等商業部を設置。女子聴講生を受け入れる
・ 1933年 - 法政騒動発生、教授多数が辞職する事態が起きる。同年、大学顧問に若槻禮次郞(第25・28代内閣総理大臣)、荒木貞夫(第37・38代陸軍大臣、第53代文部大臣、陸軍大将、皇道派重鎮)が就任
・ 1934年 - 総長に小山松吉(第35代司法大臣、検事総長、貴族院勅選議員)が就任。なお、前総長の水町袈裟六(大蔵次官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官)の代からは、寄付行為規則改正に伴って、「学長」の名称を「総長」に改めている。文学科と哲学科に女子学生が入学
・ 1935年 - 12月、高等文官試験対策に特化した高等研究科を設置
・ 1936年 - 川崎市木月(現在の法政大学第二中学校・高等学校所在地)において予科校舎の落成式を挙行、旧東京府東京市麹町区富士見の大学敷地内に法政中学校(現:法政大学中学校・高等学校)設立
・ 1937年 - 高等師範部に歴史地理科を新設
・ 1938年 - 人民戦線事件で法大関係者からも検挙者が出る(美濃部亮吉など)
・ 1939年 - 大陸部(専門部)を新設。部長に大川周明(思想家)が就任。法文学部文学科・哲学科を英吉利文学科・独逸文学科・仏蘭西文学科・国文学科・哲学科・心理学科・社会学科に改組。初の女子留学生をフランスに派遣。野球部が中野から木月に移転
・ 1940年 - 法文学部英吉利文学科・独逸文学科・仏蘭西文学科・国文学科・哲学科・心理学科・社会学科を文芸学科・文政学科に改組
・ 1941年 - 学友会を報国会と改称。予科図書館落成
・ 1943年 - 法政大学学徒出陣壮行会。総長に竹内賀久治(第二東京弁護士会創立者・会長、卒業生初の総長)就任
・ 1944年 - 法政大学航空工業専門学校設立(木月校舎)。『法学志林』休刊(1949年復刊)
・ 1945年 - 高等商業部廃止(3月)。東京への空襲により第一校舎ほか多数の施設が焼失(5月)。大陸部廃止(9月)。終戦3ヶ月後、焼失を免れた図書館他にて閲覧サービスを開始。法政大学航空工業専門学校が、法政工業専門学校と改称
● 昭和(終戦から)
・ 1946年 - 総長に野上豊一郎(夏目漱石門下、英文学者、能楽研究者)就任。法文学部文芸学科・文政学科を国文学科・英文学科・哲学科に改組。学生自治会を結成
・ 1947年 - 法文学部が法学部・文学部に改編、日本で最初の大学通信教育課程を設置、初代部長に美濃部達吉就任。4月に法政工業専門学校が千葉郡二宮町薬園台の陸軍騎兵学校跡地に移転。体育会・文化連盟結成
・ 1948年 - 筑波工業専門学校を併合して予科筑波分校(石岡分校)開設、学園祭「自主法政祭」の第1回目を開催(1947年説も)。法政大学出版局設立
・ 1949年 - 学制改革により新制大学となる。法学部・文学部・経済学部を設置。法学部に労働学科を開設(1951年廃止)。大原社会問題研究所(前身は倉敷紡績の創業家、大原財閥の財団法人)を合併
・ 1950年 - 総長に大内兵衛(東京帝国大学教授、日本銀行顧問、社会保障制度審議会初代会長、政府統計委員会委員長、吉田茂ブレーン、経済学者)が就任。工学部設置、法政大学短期大学部設置
・ 1951年 - 私立学校法により学校法人法政大学となる。新制大学院を設置。文学部に教職課程を開設。旧制専門部・高等師範部・工業専門学校廃止。石岡教養部を木月教養部に移管して廃止。
・ 1952年 - 港区麻布の中央労働学園大学(母体は内務省と財界により設立された財団法人協調会)を吸収解消して、私大初の社会学部を設置。さらに工学部移転。同年、野上記念法政大学能楽研究所設立
・ 1953年 - 53年館竣工、木月教養部から法・文学部2年生が市ケ谷に移転、財団法人日本統計研究所(前身は日本銀行国家資力研究所)が本学へ移管される
・ 1954年 - 木月教養部から経済学部2年生が市ケ谷に移転(木月は1年生のみとなる)
・ 1955年 - 55年館竣工、麻布にあった社会学部を市ケ谷に移転
・ 1958年 - 58年館竣工、55年館と58年館が第10回日本建築学会賞作品賞を受賞、木月教養部の市ケ谷移転完了
・ 1959年 - 経営学部を設置。工学部移転用地を購入(現在の小金井キャンパス)
・ 1960年 - 旧制法政大学廃止。55年館と58年館が第1回BCS賞を受賞。私大連盟会館を購入(旧泉鏡花邸跡)
・ 1961年 - 文学部第一部史学科・地理学科開設、文学部第二部史学科・地理学科学生募集停止
・ 1962年 - 奨学金給付制度開始、62年館竣工
・ 1963年 - 総長に谷川徹三(西田幾多郎門下、哲学者、帝室博物館次長、文化功労者、長男は詩人の谷川俊太郎)が就任
・ 1964年 - 小金井キャンパス竣工、工学部を麻布から移転。法政大学計算センター(現・情報メディア教育研究センター)開設。町田校地(現在の多摩キャンパス)購入
・ 1965年 - 大学院工学研究科を設置
・ 1966年 - 工学部建設工学科を土木工学科と建築学科に分離
・ 1968年 - 工学部電気工学科に電気電子専攻、計測制御専攻を増設
・ 1969年 - 69年館(現在の法科大学院棟)竣工
・ 1970年 - 市ヶ谷キャンパスに鉄柵設置(1992年撤去)
・ 1971年 - 他学部聴講制度開始。経営学部で電算機実習開始
・ 1972年 - 法政大学沖縄文化研究所設置
・ 1973年 - 学生会館竣工。法政大学社会労働問題研究センター設置
・ 1974年 - 町田開発本部設置
・ 1975年 - 法政大学ロンドン分室をロンドン大学に設置(現在のヨーロッパ研究センター)、市ケ谷キャンパスに市ケ谷総合体育館竣工
・ 1976年 - ソ連科学アカデミー東洋学研究所と研究者交換協定を締結。法政大学体育センター設置
・ 1977年 - 国際交流センター設置。法政大学ボアソナード記念現代法研究所設置。東京都、町田校地開発を許可
・ 1978年 - 多摩キャンパス建設着手
・ 1979年 - 奨学金留学制度開始
・ 1980年 - 創立100周年。隣接する日本女子学園跡地に80年館(図書館・研究室棟)竣工、イオンビーム研究所設置
・ 1981年 - 新図書館開館。法政大学日本統計研究所開設
・ 1982年 - 経済学部・社会学部教授会、多摩移転案を承認
・ 1984年 - 多摩キャンパス竣工、経済学部と社会学部が市ケ谷より移転。法政大学比較経済研究所開設
・ 1985年 - 短期大学部を廃止
・ 1986年 - 法政大学産業情報センター開設
・ 1988年 - 自主マスコミ講座創立
● 平成
・ 1990年 - 法政大学経営倫理綱領を制定。戦没者学生への卒業証書授与式を挙行
・ 1992年 - 92年館(大学院棟)竣工
・ 1993年 - 工学部物質化学科・電子情報学科・システム制御工学科を新設、8学科編成となる
・ 1994年 - 小金井キャンパスに南館竣工
・ 1996年 - 社会学部応用経済学科廃止、社会政策科学科新設
・ 1997年 - 高度情報ネットワーク開設
・ 1998年 - 法政大学エクステンションカレッジ創設
・ 1999年 - 国際文化学部・人間環境学部を設置、総合大学で初めてISO 14001取得、多摩キャンパスに16号館-EGG DOME-竣工
・ 2000年 - 創立120周年、現代福祉学部・情報科学部を設置、市ケ谷キャンパスにボアソナード・タワー竣工、小金井キャンパスに西館竣工。情報技術(IT)研究センター開設
・ 2001年 - 経済学部に国際経済学科を新設。法政大学アメリカ研究所開設
・ 2002年 - 社会学部にメディア社会学科を新設。法政大学国際日本学研究所開設
・ 2003年 - キャリアデザイン学部設置、経営学部に経営戦略学科と市場経営学科を新設、文学部に心理学科を新設。第一・第二教養部廃止
・ 2004年 - 大学院法務研究科(法科大学院)・イノベーションマネジメント研究科設置、工学部にシステムデザイン学科を新設、市ケ谷キャンパス学生会館を解体、小金井キャンパスにマイクロナノテクノロジー研究センター竣工
・ 2005年 - 会計大学院設置、法学部に国際政治学科を新設、経済学部に現代ビジネス学科を新設、スポーツ・サイエンス・インスティテュートを設置、イノベーションマネジメント研究科(経営大学院)設置、FDキャリアセンターおよびキャリアセンター発足
・ 2006年 - 市ケ谷キャンパスに隣接する嘉悦学園女子中学校・高等学校敷地を買収しキャンパスを拡張、市ケ谷キャンパス富士見坂校舎利用開始、工学部に生命機能学科を新設、グローバル学際研究インスティテュート (IGIS) 開講
・ 2007年 - 工学部の一部学科を改組しデザイン工学部を設置、市ケ谷キャンパスに外濠校舎竣工、小金井キャンパス再開発を開始
・ 2008年 - 大学院に政策創造研究科を新設、工学部を理工学部と生命科学部に改組、GIS(グローバル教養学部)を設置、理工学部に航空操縦学専修を開設、小金井キャンパスに東館竣工
・ 2009年 - スポーツ健康学部設置、大学院静岡サテライトキャンパス開設
・ 2010年 - 創立130周年、現代福祉学部を改組し福祉コミュニティ学科と臨床心理学科を新設、ボアソナードと梅謙次郎没後100周年
・ 2011年 - 東日本大震災の影響によりこの年の学位授与式・入学式を中止、小金井キャンパスの北館・管理棟が竣工
・ 2013年 - 東京六大学で初となる女性総長(田中優子)を選出
・ 2016年 - 市ケ谷キャンパスに富士見ゲート竣工
・ 2018年 - 授業時間を1コマ90分から1コマ100分に改定
・ 2019年 - 市ケ谷キャンパスに大内山校舎竣工
○ 歴代校舎

● 九段上校舎現在の市ケ谷キャンパスに移転する前に建築されていた和仏法律学校時代の校舎。設計は熊本大学五高記念館(重要文化財)や四高記念文化交流館(同)なども手掛けた建築家、山口半六による。1890年竣工で木造2階建て、建坪は255坪であった。6つの講堂と学校事務室、応接所、書籍閲覧室などが設けられれ、教員や学生たちからは「梧桐の校舎」と呼ばれて親しまれたが、大正期には手狭になったため、1918年(大正7年)に富士見町4丁目12・13番地(現在の市ケ谷キャンパスの所在地)を買収し、1921年(大正10年)に第一校舎を、翌年第二校舎を建設。旧九段上校舎は1923年(大正12年)に大東文化学院に売却され、同学院校舎として1941年(昭和16年)まで使用された。

● 旧第一校舎外堀通り沿いに1921年に竣工した木造モルタル3階建ての校舎。
3階小教室4、中講堂(合併授業用)、大講堂(各種の式典や講演などに使用)
2階小教室(十数室)
1階学長室、教員室、事務室、学生控室など
1923年の関東大震災での損害は軽微で、授業再開も早かったため、その翌年からは法政大学を目指す受験生が急増したという。戦前の法大を代表する重厚な校舎であったが、1945年5月25日から26日にかけての米軍による空襲によって焼失。

● 旧第二校舎第一校舎と共に同日、空襲により焼失。

● 旧第三校舎(戦後は第一校舎)現在のキャンパス中央広場の位置に存在した地上4階・地下1階の鉄筋校舎。山下啓次郎 の設計によるもので、1927年に竣工。完成当時は小講堂や図書館機能を有し、名称は第三校舎であったが、戦後は第一校舎と称されるようになる。末期には国際交流センター・キャリアセンター等が入っていた。しかし2007年の外濠校舎完成後に取り壊され、これを最後に市ケ谷キャンパスからは戦前の校舎が全て姿を消すことになった。2007年4月21日には第一校舎の顕彰イベントが実施され、「建築家山下啓次郎を語る」と題したパネルディスカッション等が催された。現在キャンパス中央広場には、第一校舎の説明パネルとモニュメントとして階段の手すり石の一部が残され、校舎が建っていた場所が白タイルで示されている。

● 旧第四校舎(戦後は第二校舎、通称「六角校舎」)1928年に竣工した鉄筋校舎。蒲原重雄の設計によるもので、その名の通り校舎の形が六角形を2つ組み合わせた形をしており、内部の螺旋階段が特徴的な校舎であった。しかし学生運動の激しかった1970年に刑事事件が発生し、管理上の問題から同年10月に解体された。跡地には学生会館が建設され、現在は外濠校舎の学部掲示板となっている。

● 校友会館→新館戦前に建てられた鉄筋校舎で、戦災に耐え戦後は新館として教室やサークルボックスとして使われていたものの、六角校舎と同時期に解体された。

● 木月校舎(予科→第一教養部→第二中学・高校)昭和初期には市ケ谷の校舎が手狭になったため、東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)が日活の撮影所用地として買収していた川崎市木月所在の3万3,000平方メートルの土地の提供を受け、この地に大学予科を移転することになった。その頃の木月は桃畑と麦畑が広がる田園地帯で、晴れた日には遥か遠くに富士を眺めることもできた。 鉄筋コンクリート3階建て、中央に時計台の聳えた白亜の校舎は1936年10月に落成式を行った。その後、1939年までに野球場、陸上競技場、ラグビー場、プールなども順次建設された。新制法政大学の第一教養部が1958年に市ケ谷への移転を完了した後、時計塔校舎は法政大学第二中・高校に引き継がれ、約80年にわたり同校や地域のシンボルとして親しまれて来た。しかし、男女共学化に向けて校舎を全面改築することや老朽化等を理由に2014年に建て替えられ、同年度より新しい時計塔校舎の使用が開始されている。

● 53年館現在のボアソナード・タワーの位置にあった校舎。大江宏設計によるもので、1953年竣工。55年館と連絡通路で結ばれ、大学院棟として使用された。「HOSEI UNIVERSITY GRADUATE SCHOOL」のネオン文字を見た大宅壮一が「HOTEL UNIVERSITY」と冷やかしたといわれる。

● 学生会館ホール棟および学生会館本部棟かつて現在の外濠校舎の位置に存在した建物。1972年竣工、河原一郎設計。多数のサークル活動のための部室(通称BOXと呼ばれていた)・会議室・多目的ホール・休憩室・食堂などが入っており、1973年〜2004年まで学生の自主管理がなされ24時間自由に利用することができたが、キャンパス再開発・老朽化・その他各種事情のため2004年12月に取り壊された。

「法政大学」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(https://ja.wikipedia.org/)。2020年7月14日18時(日本時間)現在での最新版を取得。


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